第43話 砂川闘争顕彰碑にひざまずく
春本番を迎えた3月、東京都下の立川市で起こった騒乱、砂川闘争の現場を巡礼した。安保条約に基づく米軍基地問題が各地で問題化していた1955年のこと、米軍立川飛行場の拡張問題をめぐり、強行に拡張反対を主張した農民、労組員、全学連と政府警官隊が激突し、農民側730人、警官側157人もの負傷者を出した事件である。血のメーデーに次ぐ大流血事件だった。今まさに当時の基地拡張予定地に足を踏み入れると、信じがたいことに50年たった現在でも農民たちの戦いが続いていることに愕然とした。砂川闘争を永遠に刻む顕彰碑の脇で、何人もの老農夫が自らが所有する農地をいまだに耕し続けている。そのかたわらの立て看板には、「基地強化に反対し、畑の耕作を続けよう」(自主耕作農家連絡会)と明記されている。農民たちの憎しみや怨念が計り知れない深いものであったことが今さらに痛感させられる。
米空軍は、航空機のジェット機化に伴い、立川飛行場を北側に拡張する要求を持ち出した。現在の砂川4〜5丁目付近への拡大である。鳩山内閣が、この要求を受け入れことから地元住民がいっせいに反発した。農民らの意志が固いと悟った政府は、土地収用法に基づき強行に現地調査を実施しようとしたのである。しかし3回にわたる測量調査は、ことごとく農民らの実力行使によって阻止され、これに激怒した政府は、2000人の警官を導入して、調査の前提となる杭打ちを強行したのだ。これに対し、農民らは支援団体を集結して4000人に膨れ上がり、警官隊と前面衝突したのである。これが大流血事件につながったのだ。結局、6本の杭が打ち込まれたが、農民は「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」と叫びながらなおかつ抵抗を続けた。警官隊も無傷ではなかった。動員
された一巡査は「砂川出動で人生観が変わり、将来が不安」との遺書を残して自殺したという。
砂川闘争で有名なのが東京地裁の「伊達判決」である。警官隊と揉みあっていたとき、全学連など25人が基地内に進入したため、7人が検挙され、起訴されたのだ。裁判長であった伊達秋雄は、なんと「わが国に駐留する米国軍は、憲法上その存在を許すべからざるもの」と画期的な判断をし、全学連メンバーらを無罪としたのだ。日本に戦力がないため、米国の戦力で守ろうというならば、従来の武力によって国を守ろうという考え方と少しも変わらないのであり、
日本国憲法が掲げる平和主義の高い理想に反する、と語ったのだ。あせった政府は、高裁を省略する跳躍上告を行い、これを受けた最高裁は原判決を破棄して逆転有罪としたため、伊達判決は無意味と化した。伊達裁判長は「この裁判をやるからには男一代のことをやりたい」と語っていたといわれ、その後墨書した辞表を提出したが、拒否されたという。
この時代の日本は、戦後の廃墟から近代化に向かう過渡期であり、様々な場面で矛盾が表面化し、騒乱が続いた。なかでも砂川闘争は、農民や学生の怒りに加え、裁判官の良心をも巻き込んだ前代未聞の事件として、忘却されてはならない。怪奇巡礼行では、現地に飛んで現在の自衛隊立川飛行場の広大な土地を臨みながら、顕彰碑である「平和之礎」の前にたたずんた。砂川の農地には、いまだに多くの人々の血なまぐさい想いが染み付き、踏み入れることを許さないでいる。