第22話 東京・本所のおいてけ堀
おいてけ堀の妖怪伝説はどなたもご存知だろうが、その場所がJR錦糸町駅横の本所界隈であることは知られていない。江戸時代の本所は、大横川から水を引いた堀がいくつも流れ、一帯は葦の生い茂った湿地帯だった。現在でこそ高層マンションが立ち並ぶ近代的な市街地だが、100年もさかのぼれば、江戸市街のはずれで荒れ放題の藪に覆われたさみしい一画だったのである。堀に流れ着いた「どざえもん」も数限りなく、こうした遺体は両国駅そばの回向院に無縁仏として荼毘に付されたのである。

だが釣り客には絶好のポイントであった。朝に夕に、酒の肴を釣り上げようと、怪しげな太公望が釣り糸をたれた。絶好のポイントだから、鯉や鮒、化け物のように太った鰻などがどんどん釣れたとされている。夢中になって釣果を眺めているうちに、近くの報恩寺の鐘がゴーンと鳴り響く。これはいかん、とふと気づくともう黄昏どき。太公望は、そそくさと竿をしまって、歩き始めるとなにやら寒々とした冷気が頬をつたう。武者震いするほどの恐怖心が湧き上がった瞬間のこと、よどんだ掘割の中から「おいてけ、おいてけ」と響くような声が伝わってきた。
太公望は、ひざを震わせながら堀の中に目を落とすが、黒々とした堀水のほかは何一つ見えない。葦が風にゆれてこすれる乾いた音がひびくだけだ。太公望は、早足で堀沿いの道を歩き始めると、再び「おいてけ、おいてけ」と聞こえる。かまわず逃げ出そうとしたとき、堀の中から突然腕が伸び、太公望は淀みの中に引きずり込まれ、帰らぬ人となった。この事件以来、「おいてけ、おいてけ」といわれたら、魚篭の中の獲物は全部堀の淀みに返さなければならなくなったと言う。本所七不思議の一つである。
大横川は現在、跡形もなく消え、流れのないいくつもの橋が残るだけとなっている。おいてけ堀ももちろん姿かたちはないが、流れていた場所は分かっている。錦糸町駅を両国方面に進むとすぐのところである。一人そこに立って瞼をふさぐと、驚いたことに荒涼とした江戸時代の風景がよみがえってくる。クラクションを鳴らしながら横を通り過ぎる自動車も気にならなくなった。