第13話 義経、腰越状の悲運

 北面の武士・源氏の血統で最も華々しく、魅力溢れるのが源義経であることは、衆目が認めるところ。源義朝の9番目の子であることから、源の九郎判官義経と呼ばれ、平家追討戦で数々の功績を上げた。一の谷の合戦では、平家の防衛線の裏を突く、鵯越を行って、勝利を導いた。平家を滅亡に追いやった壇ノ浦の海上戦では、八義経、腰越状艘飛びで敵船を次々に手中にした。こうした戦跡を買った当時の天皇は義経と弁慶の像、後に京都の警察長官である「判官」の役職を与えたのである。

 だが鎌倉の源頼朝は、義経がこうして急速に台頭してきたのを快く思わなかった。平家追討で利用するだけ利用して、殺害しようという陰謀が脳裏に浮かんだのである。そうした事情を露とも知らぬ義経は、兄・頼朝に一目逢おうと鎌倉に向かったが、鎌倉腰越にある満福寺より先へは行けなかったのだ。頼朝は、義経の鎌倉への凱旋を許さなかったのである。

義経手洗いの井戸 江ノ電腰越駅から僅かのところに今でも立派な山門を構える満福寺を訪れると、義経や弁慶にまつわる史跡が残っている。義経が手を洗った清水、履物を置いた敷石などだ。なかでも悲運を今に伝えているのが、腰越状である。鎌倉に帰還できず善福寺に逗留中に、頼朝に二心のないことを伝えようとしたためた書状である。満福寺のお堂に入ると、その全文を目にすることが出来る。兄のために危険な戦いを終弁慶腰掛の石え、対面を望んだ義経にとって、頼朝の仕打ちがどれほどの驚愕であっただろう。今にして知る由も無い。

 結局鎌倉を離れた義経は、京都に帰り、そこから逃亡生活が始まる。琵琶湖を船で渡り、北陸を抜けて旧知の奥州藤原氏に助けを求めた。しかしその地でも裏切りにあい、頼朝の追っ手に追い詰められたのである。現在義経堂とよばれる小さなお堂の中で、正妻である川越氏の娘と共に自害して短い命を閉じたのである。なんともやりきれない悲しい一生であった。

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