第5話 旭将軍・木曾義仲は埼玉県出身だった

木曾義仲産湯の清水 源頼朝、義経らと渡り合った木曾義仲は、その名のとおり信州木曾谷で生まれ、育ったと思いがちだが、なんと埼玉県出身である。その出身地は、東武東上線嵐山駅から歩くこと約45分の距離にある大蔵と言う小さな村だ。木枯らしが吹き始めた初冬のころ、コートのエリを立てつつ訪問した。まさに旧鎌倉街道にそった、陸の孤島ともいっていい寂しい村である。もちろん観光客などただ一人も訪れない。大蔵館

 その村に今でも残るのは、まず木曾義仲つまり源義仲の生地、大蔵館である。四角形の土塁が残り、空にはうっそうとした樹木が生い茂げっている。昼なお暗く、不気味なところだ。義仲は、ここで生まれ5-6歳ぐらいまで育った。その証拠に、大蔵館から徒歩10分程度いくと、鎌形八幡神社があり、その境内の一角に「木曾義仲産湯の清水」が、900年経った現在もこんこんと沸きつづけている。

 義仲が木曾へ出奔したいきさつはこうだ。義仲の父である義賢が大蔵館において、甥にあたる源義平つまり悪源太義平に急襲され死亡したために、難を逃れようと、わずかな従者を従えて信州木曾に落ちたのである。なぜ義平が叔父を殺害する必要があったのかは、今にして分からない。だがこの館で、悲惨な戦闘が繰り広げられたのは確かなことだ。館のすぐそばには、義賢の墓である五輪塔がただひとつぽつんと残っている。

 この他、近くには、木曾義仲館跡や義仲の妾である山吹姫の墓を見ることができる。この埼玉大船の木曾義高首塚県の寂しい村の狭い地域にたくさんの義仲ゆかりの場所があること山吹姫の墓は、ほとんどの方はご存知なかろう。

 義仲の長男、義高も父親以上の悲惨な死に方をしている。義仲が源頼朝に反旗を翻したため、人質となっていた義高は、無事鎌倉を脱出したものの、鎌倉街道の入間川で追っ手により殺された。入間川の近くには、北条政子の命により建てた義高を祭る神社が現存している。そして、義高の幼い首は、ここから数十キロ鎌倉方面へ行った現在の大船にある大徳寺の裏山に埋葬され、「木曾義高首塚」としてひっそりと石碑が残っている。