
第37話 刑死体解剖から始まった日本の西洋医学
江戸時代の末期、人体解剖に関する洋書を苦心の末に邦語に訳し、「解体新書」として世にあらわした杉田玄白は、処刑場で行われた刑死体解剖に大はしゃぎで立ち会ったというから、とんでもない人間である。その人体解剖は、1771年に小塚原処刑場で実施された。得納万兵衛という役人に事前に通知を受けた杉田玄白と前野良沢は、いさんで処刑場に足を運んだ。3月4日のことである。このとき杉田玄白らは大喜びで「観臓」し、また洋書に記録されていた解剖図と極めてよく一致していたことから、感嘆の意をあらわにしたという。その時解剖されたのは、京都出身のあだ名「青茶婆」(あおちゃばばあ)という50歳前後の女性刑死体だった。洋書の解剖図を信頼に足る書と考えた杉
田玄白は、そのとき翻訳に着手する決意をしたのだ。
だが翻訳を決意した本当の狙いは、実は自分の名声を売ることにあった。翻訳にかかった時間は3年半ほどと短く、いかに急いで事業を進めたかが分かる。つまり他人に先回りされて、無意味となることを大いに恐れた。そのために翻訳のいたるところに間違いがあり、出版後誤りを修正する改定を何度も行っている。翻訳の中心となったのは玄白ではなく、前野良沢だったが、翻訳の稚拙さを自覚した良沢は、出版に当たって署名を辞退したほどだ。とはいえ「解体新書」がわが国の医学に革命的な進歩をもたらしたことは否定できないだろう。1750年代に公の下で初めて実施された人体解剖では、中国から渡ってきた医学書の多くの部分が実際と異なっていることが明らかになっていた。翻訳された「解体新書」は、広く普及し多くの医者がほぼ正確な人体構造を知ることが出来たのである。それまで日本にはなかった「頭蓋骨」「軟骨」「神経」などの言葉も、玄白がその時、苦心して創作したものだ。
つまり日本の西洋医学は、延べ20万人が処刑されたという南千住の小塚原刑場で行われた女性の人体解剖から始まったのである。現在では、ほとんど人が訪れることのない小塚原回向院の入り口に、「観臓記念碑」が立っているだけとなった。築地の聖路加国際病院の脇に「蘭学事始の地」と記された碑が設置されているが、これは前野良沢の居宅跡と推定されているところで、人体解剖を見学した玄白が翌日ここに出向いて「解体新書」の制作を決断した。自らの名声のために稚拙な訳本を出版し、人体解剖にはしゃいで出席した玄白は、祟られることもなく85歳まで生き、長寿を全うしたというからたいしたものである。