第36話 60年代学生運動はブームに過ぎなかったのか
30年余りが経過して、未だにはっきりとした答えが見つからない歴史的事件がる。あの学生闘争だ。今から思い返せば、一種の流行にすぎなかったのかもしれないが、それだけではないだろう。学生運動の最大の舞台となった東大安田講堂や解放区ができたという神田の白山通り、そして御茶ノ水付近を訪れると、いまや茶パツにイヤリングの無思想学生が溢れ、当時の面影は微塵もない。横を過ぎ去っていく彼らの頭の中には、過去の学生闘争のかけらも存在しないのである。社会、大学の既成の管理体制に真っ向から立ち向かった1960年代の学生達
の姿をもう一度思い起こし、現在の我々に足りない何かを探しに巡礼に出よう。
60年代は、安保闘争で幕開けしたといっていい。10年で期限切れとなる日米安保の再延長に反対した労働組合と全学連の抗議行動が、60年6月に至って最大の盛り上がりをみせたのだ。首相官邸に突入したり、国会議事堂前でデモ行進をする者など、その数17万人に上ったという。そして6月15日、40年が過ぎた今も脳裏から離れない歴史的悲劇が起こった。全学連が警官隊の防衛線を突破し、国会議事堂内に乱入しようとした際、帯同していた東京大学文学部4年生の樺美智子が、警官隊とのもみ合いの中で死亡したのだ。この時警官隊は、ヘルメットをかぶっていない学生の頭や顔へ警棒を振りかざしていた。6・15国会突入で、樺美智子の死と72人の負傷者、67人の逮捕者を出している。安保闘争最大の騒乱だった。樺美智子の死は、その後、労働者はもとより一般市民にまで広く同情を買い、政府への怒りは頂点に達する。6月19日には、全学連9000人が日比谷公会堂に結集し、樺美智子追悼集会を開いた。
時は過ぎ68〜69年(「ろっぱち・ろくきゅう」と読む)に移ると、学生運動の性格も変化していた。社会や自らが所属する大学の既成の管理体制を打破しようとする闘争に重心を移していたのだ。いわゆる「大学解体」である。既成管理を打破して民主化を進めると伴に、特権階級としての大学生が自己批判し自らを否定する運動が拡大した。さながら文化革命の様相を呈していった。そして火炎ビンが飛び交う東京大学安田講堂の姿が当時の白黒テレビに映し出されたのだ。68年3月、医学部ストのメンバーに対する大学当局の不当な処分を契機として新左翼が態度を硬化し安田講堂を占拠。当局は、これに対抗し大学内へ機動隊を導入したため、さながら内乱の様相を呈したのである。私立大学が集中する御茶ノ水や神田一帯は、デモ行進の学生で埋め尽くされ、バリケードの中は解放区と化した。路面のコンクリートブロックは細かく砕かれて、投石用の石に変えられていった。
しかし70年代に入ると、学生運動の波は急速に衰え、内部分裂を繰り返したあげく、内ゲバ全盛の時代となる。70年代は、内ゲバの10年だったといっていい。左翼グループがお互いに足を引っ張り合い衰退へと向かった。政府は、都内中心部に大学が集中しているのが騒乱の一因と見て、八王子など郊外へ次々と移転させていった。こうして現在では、あの学生闘争も歴史の一場面に過ぎなくなった。いったいあれは何んだったのか。大学生に加え高校生までも加わった学生運動ブームに過ぎない、というのは一面ではある。日本だけではなく、中国、ヨーロッパ、韓国などでも同様の学生の動きがあったからだ。だが、高度成長期が終盤に向かう中、急速に改善された経済や生活様式と、人々の思考様式との間で齟齬を来たし始めていた時期と見ることも出来る。このギャップを一番敏感に感じ、そして真っ先に行動に出たのが学生層だったのである。社会が発展し、次の段階に進む過程での「産みの苦しみ」と位置付けてもいい。社会とは常にこのように前進していくものだ。当時に生きた学生達が、現在どのように過去を清算しているのか、怪奇巡礼行には知る由もない。