第21話 夭折した天才女流歌人・中条ふみ子を偲ぶJR帯広駅

 

 32歳で夭折した天才女流歌人・中条ふみ子の作品に触れたことのある方がどのぐらいおられるだろうか。彼女は、30歳でガンに犯され、手術を繰り返したあげく、北海道札幌の薄暗い大学病院のガン病棟で息を引き取るまで、歌を詠みつづけた。生涯を閉じたのは、昭和29年のことである。ここに人となりを紹介して、鎮魂としたい。

 「冬の皺 寄せいる海よいま少し 生きておのれの無惨を見むか」

 「死後のわれは 身かろくどこへでも現れむ たとえばきみの肩にも乗りて」

 「遺産なき母が唯一のものとして 残しゆく死を 子らは受け取れ」  

 中条ふみ子の代表作である。北海道帯広の短歌サークルに参加したのがきっかけで、数年後には全国レベルの歌人に上り詰めた。死の直前に出版された「花の原型」(後に「乳房喪失」)と題した唯一の歌集には、当時文壇の最高峰だった川端康成が「序文」を寄せている。川端は「私は『花の原型』を読むと心にひびいた。この人の生きているうちに、少女の頃からの望みの序文を書いてあげるのも、同じ日に生きた縁分だし、強い歌に対する感応だろう」と、その序文に記している。

 当初はあまりにも直裁的な短歌として批判も多かったが、出版社などからの評価は高く、徐々に引き上げられていった。その感性には、誰にも真似のできない天才としての素質が備わっていたのである。しかし順調に進んでいたかと思えたふみ子の人生に、次々と不幸がのしかかる。信じていた夫との離婚、そしてガン発症である。帯広市ありし中条ふみ子内の病院でガン切除を受けたが、再発し最後には札幌の大学病院に転院した。

 そのころ、この医科大学の1年生だったのが作家・渡辺淳一氏である。渡辺氏は、後にこのことを知り、一人帯広に赴き、遺族や友人などを丹念に取材して、小説「冬の花火」を著した。昭和50年のことである。そして「あとがき」にこう書いている。「私と中条さんのつながりといえば、わずかにこの病院の思い出しかない。後年中条さんの歌を読み、その歌をあの病院においてみたとき、私は初めて中条さんの歌の華やかさと、哀しみと、したたかさを知った」。

 中条ふみ子は、次の一文を残して、天へ上った。「不治といわれる癌の恐怖に対峙した時、初めて不幸の確信から生の真相に手が届いたと思う。陰鬱な癌病棟に自分の日常を見出した時どうして歌声とならずにおこうか」。脚光を浴びながらも、不治の病で志をまっとうできなかった天才の無念が偲ばれる。帯広市内の河原のほとりに彼女の歌碑が作られていると言う。

 「冷えしきる骸のくちにはさまれし ガーゼの白き死を記憶する」

 「治療なき午後に抜けきて君と合う また幾日か支へむために」

 「花など持ち見舞へる客は私の抜け殻をベッドの上に見てゆく」

 「月光にまぶた濡らして眠る夜は ピュアな少女にかへるか われも」 

 「絵本に示す駱駝の瘤を子が問へば 母はかなしむその瘤のこと」

 「赤の他人となりし夫よ 肌になお掌型は温く残りたりとも」

以上代表作

 (国文社・現代歌人文庫「中条ふみ子歌集」を参考としました=写真も)