第1話 20万人の処刑者で埋め尽くされる回向院(プロローグから続く)

南千住駅を南に進み奥州・陸羽街道を横断すると、交番の横に回向院がある。ねずみ色の空からひたひたと雨が落ち始めた。中空を見上げながら回向院の山門をくぐると、左手にいきなり現れたのが、吉展地蔵尊だ。身の丈1m50cmもあろうかという立派な地蔵である。小塚原回向院村越吉展ちゃんと言えば、今から数十年も前にあった誘拐事件の犠牲者である。身代金要求の直後にすでに亡骸となっていた悲しい事件だったことを思い出す。

 ここ回向院は、本所回向院の分家として設けられた。本家は、下町を流れる河原で見つかっ海難事故死者を弔うために建てられている。しかしここ千住回向院は、やや趣が異なっていた。実はこの地一帯は、明治維新以前200年以上にわたって罪人の処刑場だったのだ。境内のこじんまりした墓地の中に、数知れぬ処刑罪人が埋められている。ここで首を落とされた罪人の数、述べ20万人に上るという。

 通称、小塚原処刑場だ。品川の鈴ヶ森刑場と並んで、東京最大の首塚である。当時2000坪に及ぶ広大な敷地の中で、はりつけ、獄門、火罪、斬罪といった各種のお仕置きが実行された。昭和47年の鉄道工事の際には、道路面から40人分の首が掘り出され、翌48年にもいくつかの遺品と共に首骨が現れている。このときの鉄道工事などによって、回向院は現在の小さく目立たない一寺院に変わった。大都会の一角にそんな所が今でもの残されているとは、ほとんどの人が気づくまい。その証拠に、もと処刑場の上に、高層の公営住処刑場の上のビル群宅が建設され、何も知らずに多くの生活が営まれている。

首切地蔵尊

 墓地内にある吉田松陰の塚は、敷地内のほぼ真中に位置する囲いの中にひっそりと立っていた。周囲には、幕末の志士らの墓がめぐらされている。 桜田門外の変や幕末の政治にかかわった思想犯らである。江戸時代の医師杉田玄白が「解体新書」を著す際に、解剖死体を調達したのもこの処刑場だ。境内の入り口近くに、近代医学の端緒をつけた快挙を記念し、「肝臓記念碑」が設けられている。

 巡礼行を次に進めよう。回向院を後にし、3分ほど歩くと、鉄道高架下に現れたのが延命寺である。ここには処刑者の菩提を弔う為に巨大な首切地蔵が建立されている。建立は、1741年のことだという。罪があろうが無かろうが死者に対しては平等に回向するという習慣により、有志が集まって建立されたらしい。褐色に染まった地蔵は、200年以上のあいだ風雨にさらされながら、血なまぐさい歴史を語りかけてきたのである。

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