第15話 消滅と再生を繰り返す大東京地図はこちら
大正12年9月1日の正午0時2分、あの関東大震災が発生した。東京下町の被害は想像を絶するもので、とくに本所・深川一帯の惨状は目を覆うばかりだったという。そのなかで、38,000人
の避難者が一度に焼死した場所があった。約2万平米の広さがあった当時の公園予定地、もと陸軍被服工場跡地である。家を失って続々と非難してきた人達が、持ち込んできた荷物に火炎が燃え移り、またたく間に火の旋風にさらわれ、黒煙が上がった。38,000人という数字は、東京の全死者数のおよそ4割に当たる。80年近くが過ぎた現在、その無残な公園予定地には、鉄筋コンクリート造りの東京都慰霊堂が建立されている。新線・都営大江戸線の両国駅から2・3分のところである。
しかしこの慰霊堂に祀られている犠牲者は、関東大震災に関する者だけではない。大震災から20年余りが過ぎた第2次世界大戦の末期に米軍が敢行した東京大空襲の死者をも合祀している。昭和20年3月10日の夜明け前、空襲警報と共に飛来したB29爆撃機が、落ちると火の海を作り出す焼夷弾を何万発と打ち込んだのだ。3度にわたる攻撃で東京全域は文字通り火の海となり、10万人の犠牲者、13万人の負傷者が発生した。東京はその時、無と化したのである。
東京は、しばしば火災や風水害、戦乱を経て、今のハイテク都市となった。たとえば有名な振袖火事は、1600年代の半ば本郷から出火し、江戸の市街地一帯を焼き尽くした。江戸開闢から明治中頃までに大火災といわれるものだけで100回以上を数えるという。そのたびに多くの焼死者を出したのは言うまでもない。また大きな風水害は35回、飢饉・疫病の被害は10回程度とされている。これとは別に天然痘、コレラの流行も90回以上である。東京大空襲はその中でも最大規模の犠牲者を出している。
東京の土は、死者の血で固められている。だからコンクリートで覆わざるをえない。そしてまた消滅する日を待っている。