第6話 決して忘れ去ってはいけない秩父困民党蜂起事件

 

 私達が決して忘れ去ってはいけない事件が、明治17年の秋に勃発した秩父事件である。村上泰治生家当時秩父地方の経済を支えていた絹価格の暴落と諸物価の高騰で農民の生活がなりたたくなり、役所や富農を襲った暴動である。秩父地方は困民軍と称した農民数千人により占拠され、あたかも解放区が成立した。田代栄助を隊長とする困民軍は、副隊長困民党蜂起結集の地、秩父椋神社や伝令士、会計係などを選出し組織だった暴徒軍だったのである。

 しかしすぐさま駆けつけた政府の鎮圧軍により、1週間も持たずに壊滅し、残党は十石峠を越え、長野県の北相木村を通過し、東馬流で展開された掃討戦によって事件は終了した。東馬流は、八ヶ岳山麓高原鉄道沿いの淋しい寒村で、この村のはずれに秩父事件終焉の地と書かれた石碑が佇んでいる。

 困民軍を影であやつっていたのは、当時の先進知識人である自由党員の村上泰治だった。下吉田の重木耕地に泰治の生家が現存している。この重木耕地は、山の斜面に開けた地域で、20件ほどの集落でできている。人の影はまったくない静かな集落だ。秩父占拠の前夜、困民軍は、秩父市街の北に位置する音楽寺の鐘を合図に攻め込んだ長野県東馬流の困民軍終焉の地と言われ音楽寺に立てられた困民党顕彰碑る。その音楽寺の境内、梵鐘の近くに「秩父困民党無名戦士の墓」が秩父市街を静かに見下ろしている。そこには、「われら秩父困民党 暴徒と呼ばれ暴動といわれることを拒否しない」と今にむなしさを伝えている。

 困民軍敗走の通過点となった北相木村には、会計士・菊池寛平の墓がある。長野県へ逃れながらも、次々と富農を襲いこの地方を震え上がらせた。困民軍が掃討された村、馬流には、わずかな期間ではあるが、困民軍が本陣とした民家が残されている。掃討され散り散りとなった者達は、野辺山あたりで姿を消していったという。野辺山は、JR駅で最も高い標高で有名である。くっきりと映る八ヶ岳をバックとしたすがすがしい高原地帯だった。

 生き残ったわずかな幹部のうち井上伝蔵は、北海道へ逃走し、本名を偽って結婚馬流の困民軍本陣までしている。そして死の直前になって自らの経歴を妻に明らかにしたという。こうした反乱の歴史が日本にもあったことを心に止めて置こう。

困民軍に襲われた三峰神社近くの古池大尽