第44話 いまだ消えない足尾銅山の悪夢
日本で最初に「公害」が問題となった足尾銅山の深い谷間に巡礼を敢行した。5月の連休を利用しての大旅行、暖かく穏やかな陽気が、かえって
日本の近代化の悲惨な影の部分を浮き立たせる結果となった。足尾銅山は、廃坑後半世紀が経って、いまだに当時の恐ろしい環境破壊の跡をむき出しにしている。明るい太陽のひかりが黒々とした谷間の岩肌を、不気味に照らしている。緑が青々としていなければならない山全体が、すすに覆
われたように変色し、精錬所を睨み続けているのだ。これほど異様な山々に遭遇したのは、かつて経験がない。どれほどの人々が、この足尾銅山から発した亜硫酸ガスや鉱毒に苦しめられたか、想像を絶するものがある。
勇気を決して進入を試みたのが、精錬所からわずかのところにある本山坑の生活共同体跡だ。本山坑は、明治17年に鉱石掘削のために開発されたあと、多数の工夫宿舎、生活協同組合、食堂、運動グラント、診療所、労務事務所などのいわば生活と労働に必要な施設が整えられ、足尾銅山の中心、いや日本・東洋の銅山の中核へと発展したのである。狭い谷間の斜面に、一時は290世帯、1167人が居住していたという。その栄光や人々のざわめきは、いまや枯野の斜面に変わり、不気味な静けさが一帯を覆っている。奥に足を踏み入れていくと、当時の男女の共同浴場跡、廃屋、使用していた茶碗のかけら、鉄柵など生活の跡が生々しく残っている。生協の廃屋内を調べると、昭和初期のアイスクリーム保存容器、破壊された真空管大型テレビ、多数のウイスキーの空箱などが散乱状態にある。そのなかでも震えが抑えられなかったのが、天井の蛍光灯に巻きついていたプラスチックの装飾だ。茶色く変色してはいるものの、大勢が集まる集会所のささやかな「慰め」の跡が、21世紀に残り続けているのだ。
精錬所が噴出する亜硫酸ガスの影響で、上流の集落が全滅する大事件も起こった。最悪の被害をこうむったのは、奈良時代から続く松木地区旧三
村、40戸262人の農民だ。毎日毎晩、松木地区上空を覆うねずみ色のガスが、光をさえぎり、田畑
や樹木を徐々にに枯らしていった。精錬所の性能が向上すればするほど煙害がひどくなり、農民は生活の存続にかかわる事態に直面する。人々の不安はいかばかりだっただろう。栃木県や国に、「人命救助請願」を提出したり、国会議員の田中正造に嘆願したが、一向に改善されなかった。農民は、わずかの代償金を受け取って徐々に村を後にし、とうとう明治35年に廃村に追い詰められた。日本初の「公害」として烙印された足尾銅山開発の暗黒部分の象徴として、今日に語り継がれているエピソードである。
上流は煙害、下流の広範な流域には鉱毒を撒き散らし、農民を苦しめた銅山経営者幹部らは、現在の渡良瀬鉄道足尾駅近くに「古川掛水倶楽部」なるものを設立して、遊興に励んだというから、とんでもない連中だ。「鉱都足尾の迎賓館」といわれる同倶楽部は、当地としては珍しく高級な洋風二階建てで、宿泊施設、会議室に加えビリヤード場などの遊具をを整えている。銅山施設を破壊する農民暴動の発生もうなずけるというものだ。巡礼中に出会ったカメラマンの話では、ようやく足尾の山肌に緑が戻ったと喜んでいたが、怪奇巡礼行はその言葉をとても受け入れることができなかった。